タイ 海外進出ノウハウ

「将来への布石としての進出が、新分野進出の足掛かりに」 ‐ 協和光学工業株式会社

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創業80年近くの老舗顕微鏡メーカー

協和光学工業は、戦時統制下にあった1940年(昭和15年)、東京・杉並区で顕微鏡の部品の製造を開始した。終戦後すぐに、細胞や細菌をプレパラート標本にして観察するための生物顕微鏡の完成品を製造するようになり、やがて戦後復興の好景気に乗って、対象物をそのままの形で観察できる実体顕微鏡の分野にも進出。業界内でいち早くステレオ(双眼)顕微鏡の製造に成功すると、日本の大手光学メーカーに続く形で、ステレオズーム顕微鏡を完成させた。その後も新たな技術の習得と研究開発に努め、金属顕微鏡、偏光顕微鏡と扱う光学顕微鏡の種類を次々と増やしていった。

一方、精密機械製造業の検査工程で実体顕微鏡が使われるようになると、同社もこの工業用分野に進出。近年は、半導体の製造現場などでマイクロ単位での加工が求められるようになり、製造工程でも顕微鏡が必要となってきた。そのため、製造装置に組み込むレンズ部分を光学ユニットとして納品する仕事が次第に増えている。同社の顕微鏡は、KYOWAブランドとして、現在も全国の数多くの小中学校の授業などで使われている。しかし、海外製品との価格競争もあって顕微鏡としての売上は徐々に減少しており、今では光学ユニットの売上が、全体の8割程度を占めるまでになっている。

なお、業容の拡大と共に、1962年調布市に、1969年長野県飯島町に相次いで工場を新設したが、現在、国内工場は長野工場に集約させており、本社は神奈川県相模原市に移転している。

円高への対応のため東南アジアに活路を見出す

同社の海外とのつきあいは、終戦直後にまで遡る。1949年に米国への輸出に成功、1951年に台湾で大型契約を落札。日本の商社や代理店を活用するほか、創業者自ら海外を飛び回り、現地企業と直接代理店契約を結んでいった。その結果、1950年代にはすでに、東南アジア、カナダ、中南米、欧州、中近東、アフリカ諸国など、世界中に輸出実績をあげていた。また、輸出だけではなく、米国の大手光学メーカーとOEM契約をとりつけた実績もあり、海外との取引経験を早い段階から蓄積していた。

ところが、輸出を積極的に行っているために為替変動の影響を受けやすく、国内における光学ユニットの最終納品先も輸出企業が多いため、ここでも売上が為替の影響を受けやすい。その一方で、円高になることで、海外から安価な製品も流入することになり、国内の価格競争も激化していった。

そこで、1990年代になると海外からの調達に取組み、中国に協力工場を求めた。また、同社では設計から組立、調整までを一貫して行ってきたが、価格の折り合わないレンズの製造を外注に切り替え、さらなるコスト削減に取り組んできた。しかし、2007年以降円高が急速に進み、2011年、ついに1ドル75円台まで達した時は、さすがに厳しい状況に陥っていた。

こうした中、2012年の2月、伯父である先代の急逝に伴い4代目に就任したのが、現社長の石井則行氏である。石井社長は就任するやいなや、国内もいまだ混乱する状況の中、あえて、新たな部品調達拠点の設立を目指した。社長に就く前、社内で営業を行っていた石井社長は、お客様の声を直接耳にする機会が多かった。直接進出を打診されたわけではないものの、コスト削減への期待を感じていた。せっかく声をかけてもらっても、価格が安すぎて受けられない仕事もあった。歯がゆさを強く感じていたからこそ、将来に向けて何か手を打たなければと考えた。「落ち着いてしまえば、動きにくくなるかもしれない。国内にまだ余力のある今こそがまさに進出するタイミングだ。」若者の採用の難しさも感じはじめていたところでもあったため、石井社長の頭には、若い人材の確保という期待もあった。

数か国をまわって住環境の良いタイに決定

進出先については、迷わず東南アジアを選んだ。中国にはすでに協力工場がある。さらに東南アジア内ではFTAが締結されつつあるため、今後同地域に販路を拡大していくための販売拠点にもなる。早速、月に1週間のペースで、海外営業の代理店訪問に同行するなど、東南アジア各国を見てまわった。当面は石井社長が現地に駐在するが、将来は社内から誰かを派遣したいと考えていた。「駐在した人が長く生活できる国を選びたい。そのためには、代表である自分が、実際に足を運んで、匂いを嗅いで、現地を体感した方が良い。」そのように考えた石井社長は、日本料理店ではなくあえて屋台で食事をとるなど市井の人々との交流にも努めた。こうして合計6回ほどの視察の結果、治安がよく、日本人に好意的であるタイに進出先を絞り込んだ。タイでは前年の2011年に洪水が発生していたこともあり、「今更タイに」という人もいたが、石井社長は自分の目を信じた。

そのタイミングで中小機構のF/S(実現可能性調査)支援事業の採択を受け、2012年9月、中小機構の専門家とともに、1週間の日程で、タイでF/S調査を実施した。専門家のアドバイスもあり、タイでは、小さく生んで大きく育てることを第一に考えた。たとえ失敗したとしても最小限の損失ですむように、最初の段階から進出後の運転資金まで含めた予算の上限を設け、その資金が尽きた時点で事業が軌道に乗っていなければ撤退する覚悟だった。また、国内と同様に、少しでも現地での経費を低く抑えたいと考えていた。そのためF/Sでは、現地に金属部品などの調達先があるか、そして将来取引先になりうる会社はあるのか、といったことを確認するために、現地の日系企業やローカル企業を回った。さらには、バンコク郊外の複数の工業団地、BOI(タイ投資委員会)などにも足を運んだ。

住宅内のスペースを活用して小さく始めたレンズ加工

これらの調査結果をふまえ、正式にタイへの投資を決断。資材はすべて日本側の手配で、高い精度の必要な部品は日本の本社から、それ以外のものは中国・フィリピンなどから調達し、現地に届ける。加工の方は、簡単なレンズの研磨と部品の組み立て・調整から開始し、完成したものをすべて日本本社に送り、日本で追加部品の取り付けや検査などの最終工程を行って各地に出荷するという計画を立てた。

現地で少しずつできることを増やしていけば良いと考え、現地法人の設立を優先させた。そこで少額投資であればメリットが少ないと判断し、レンズはもともと関税も低いため、BOIの投資奨励制度の認可を受けなかった。そのため独資での進出ができず、最も苦労したのが合弁相手探しであった。やはり社長自ら情報を集めるうちに、日本である切削加工会社に出会うことができた。この会社は自らのタイへの進出経験を活かして日本企業向けにコンサルタント活動を行っていた。タイの現地工場も見せてくれて、そこで紹介されたのが、日系企業向けにコンサルタント業を行っているタイの会計事務所だった。ちょうど他にも、合弁相手を探している同じくらいの規模の会社が2社あったことから、3社が協力して交渉すればリスクを減らせると考え、この会計事務所に51%の株を保有してもらうことに決めた。

工業団地はどこも広すぎたため、合弁相手の女性社長が探してくれたチョンブリ県シラチャ郡にある二階建ての住宅を購入し、そのうちの1室に換気設備を整えて作業スペースにすることにした。シラチャには日本人学校があるため日本人が多く住む。石井社長も家族を連れて住居部分に住みこんだ。また、オフィス業務は会計事務所が代行することになり、レンズ加工の作業者として現地の男性4名を採用した。必要な手続きをすべてこの会計事務所が行ってくれたためスムーズに認可がおり、海外展開を目指してから1年にも満たない2012年中には、現地法人の設立にこぎつけた。

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